1. 製造業が狙われる時代
近年、製造業を狙ったサイバー攻撃が急増しています。ランサムウェアによって工場の生産が停止し、大きな損害が生じた事例は、国内外で数多く報告されています。独立行政法人情報処理推進機構(IPA)が公表する脅威動向でも、製造業はランサムウェアやサプライチェーン攻撃の主要な被害業種として、繰り返し取り上げられています。
こうした攻撃の多くは、高度な技術ではなく、認証の弱さ——盗まれたIDとパスワード、放置されたアカウント、緩いアクセス管理を突いて始まります。つまり、製造業のセキュリティを守るうえで、ID管理(誰が・何に・どこまでアクセスできるかの管理)は、避けて通れない基盤なのです。そして製造業には、他の業種にはない事情から、ID管理がとりわけ重要になる理由があります。本記事では、その理由を3つの観点から解説します。
なぜ攻撃者は製造業を狙うのか
製造業が狙われるのは、「生産が止まると損害が大きく、身代金を払わせやすい」「機密性の高い技術情報を持つ」「サプライチェーンの起点として、そこから大企業へ攻撃を広げられる」といった理由からです。攻撃者にとって、製造業は魅力的な標的なのです。だからこそ、守りの基盤であるID管理の重要性が高まっています。
2. 理由1:IT/OTの融合で「認証の抜け道」が生まれた
製造業でID管理が重要になる第1の理由は、IT(オフィス・基幹系)とOT(生産設備・制御系)の融合です。かつて工場の制御システム(OT)は、社内ネットワークからも外部からも切り離された「閉じた世界」でした。しかし、生産の効率化やデータ活用のために、OTがITネットワークやインターネットにつながるようになりました。
この変化は、大きなメリットをもたらす一方で、セキュリティ上の新たな課題を生みました。
- 攻撃経路が広がった:ITネットワーク経由で、これまで守られていたはずの生産設備にまで攻撃が到達しうるようになった。
- 古い設備の認証の弱さ:OTの制御用PCや機器には、古いシステムが多く、認証の仕組みが弱い、あるいは共有アカウントが常態化していることが多い。
- リモートアクセスの増加:設備メーカーによる遠隔メンテナンスなど、外部から工場ネットワークへアクセスする経路が増え、その認証が狙われる。
IT/OTが融合した今、「誰が、どの経路で、どの設備にアクセスできるか」を統制することが、工場を守るうえで決定的に重要になりました。これはまさにID管理・アクセス管理の課題です。
3. 理由2:現場特有の「共用・共有」の運用
第2の理由は、製造現場特有の「共用・共有」の運用です。工場では、1台の端末を複数の作業者で共有し、共有アカウントでログインする運用が広く根付いています。交代制勤務、手袋を着けた作業、素早い交代といった現場の事情がその背景にあります。
しかし、こうした共有IDの運用は、セキュリティ上の弱点になります。
- 誰が操作したか分からない:共有アカウントでは、トラブルや不正の際に「誰がやったか」を特定できない。
- パスワードが変わらない:多人数で共有するパスワードは変更が難しく、退職者も知ったまま。
- 過剰な権限になりがち:「誰が使っても作業できるように」と広い権限が付与され、被害が拡大しやすい。
オフィスワークと違い、製造現場では「1人1台のPCに、各自が複雑なパスワードでログインする」という一般的なやり方が通用しにくい。この現場特有の難しさがあるからこそ、製造業のID管理には、現場の実情に合った工夫が求められます。無理なルールを押し付ければ現場は抜け道で対応し、セキュリティはかえって悪化してしまいます。
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4. 理由3:サプライチェーンでの信頼が問われる
第3の理由は、サプライチェーンにおける信頼です。製造業は、多数の取引先・部品メーカー・委託先とつながって成り立っています。そして近年、攻撃者はこのつながりを悪用します。セキュリティの弱い1社に侵入し、そこを踏み台にして、取引先である大企業へと攻撃を広げるのです。
この「サプライチェーン攻撃」への懸念から、大企業は取引先に対して、一定のセキュリティ水準を求めるようになっています。そして、その要求の中核にあるのが、ID管理・アクセス管理です。「誰が自社システムにアクセスできるかを管理しているか」「退職者のアクセスを確実に断てているか」「操作を記録できているか」——こうした点が、取引を続けるうえでの条件として問われ始めています。
この流れを象徴するのが、経済産業省・IPAが推進するSCS評価制度(サプライチェーン強化に向けたセキュリティ対策評価制度)です。サプライチェーン全体のセキュリティ水準を評価するこの制度でも、ID管理・アクセス制御・認証は重要な評価項目となります。製造業にとって、ID管理はもはや「自社を守る」だけの問題ではなく、「取引先からの信頼を保ち、ビジネスを続ける」ための条件になりつつあるのです。
「取引の条件」としてのセキュリティ
サプライチェーンのセキュリティ要求は、年々厳しくなっています。「セキュリティ対策が不十分だと、取引先として選ばれない」という時代が現実になりつつあります。とりわけID管理は、取引先が確認しやすく、かつ評価制度でも問われる項目です。ID管理の整備は、守りのコストではなく、ビジネスを続けるための投資だと捉える視点が重要です。
5. 製造業がID管理で取り組むべきこと
では、製造業は具体的に何に取り組むべきでしょうか。3つの理由を踏まえた、優先度の高い対策を整理します。
- 共有IDを廃し、個人認証にする:「端末は共用でもログインは個人ごと」を実現し、操作を個人単位で記録する。現場の作業を止めない認証手段を選ぶことが鍵。
- IT/OTのアクセスを統制する:誰が・どの経路で・どの設備にアクセスできるかを管理する。特にリモートメンテナンスの認証を強化する。
- 認証をパスワードだけに頼らない:盗まれやすいパスワードだけの認証から、より安全な認証へ移行する。攻撃の起点である認証情報の窃取を防ぐ。
- 退職者・委託先のアクセスを確実に断つ:入退社・契約終了に連動して、アクセス権を確実に失効させる。
- アクセスを記録し、監査に備える:「誰が何をしたか」を記録し、取引先からの要求や評価制度に応えられるようにする。
これらはいずれも、ID管理・アクセス管理の基本を、製造業の実情に合わせて実践するものです。難しい新技術が必要なわけではなく、「誰が・何に・どこまでアクセスできるか」を、現場の事情に配慮しながら確実に統制する——この地道な取り組みが、製造業のセキュリティを支えます。
6. ID管理は、製造業の経営課題
製造業でID管理が重要になる理由を、3つの観点から見てきました。IT/OTの融合による攻撃経路の拡大、現場特有の共用・共有の運用、そしてサプライチェーンで問われる信頼——これらはいずれも、製造業ならではの事情であり、ID管理を単なる「情報システム部門の課題」から「経営に関わる課題」へと押し上げています。
工場が止まれば生産が止まり、取引先の信頼を失えばビジネスが揺らぐ。その根っこにある守りの基盤が、ID管理です。しかも製造業には、現場の作業を止めずにセキュリティを確保するという、独自の難しさがあります。だからこそ、製造現場の実情を理解したうえで、パスワードに頼らない現場に優しい認証や、IT/OT・サプライチェーンを見据えたアクセス管理を、無理なく導入していくことが求められます。
自社のID管理が、製造業ならではのこれらの課題に応えられているか——共有IDは残っていないか、IT/OTのアクセスは統制されているか、取引先の要求に応えられるか。一度この観点から点検してみることが、工場とビジネスを守る確かな一歩になります。ID管理は、製造業がこれからも選ばれ続けるための、経営の土台なのです。